【125】 
桑名 六華苑
諸戸屋敷 その2 + 九華公園      2007.06.29

 
 『六華苑』でお抹茶をいただきながら、「諸戸さんのお屋敷は、この『六華苑』じゃないのですか?」と不勉強振りを曝(さら)す章くんに、「ここは2代目が建てたお宅…。初代のお屋敷は、この裏手にありますが、一味違いますよ」と「桑名歴史案内人」のネームプレートを胸に掛けたご婦人は自信たっぷりにのたまわった。
 日本の山林王…、日本一の大地主…と桑名市のHPにも紹介されている初代諸戸清六が起居した『
諸戸屋敷』のことだ。初夏には菖蒲池に赤・白・紫・黄色の花々が咲き乱れ、秋は邸内の紅葉が見事だとか。
 と、章くん、ここで朝から何も食べていないことに気づいた。今日は桑名で10時からの会合…、午前中に用事のあるときには朝食を取らないことが多い章くんは、会合はお昼に終わるから「六華苑」のレストランで食事をしようと思っていたのだが、レトロな洋館を見てそのまま足を踏み入れてしまい、食事はあとまわし…。『諸戸屋敷』のことをうかがい、「入館は4時までですから」とご注意をいただいたのが3時30分…、食事をしている時間はない。
  
 駐車場から車を出して、六華苑の北側の道を西へ回る。走ること2分…、『諸戸屋敷P』の看板を見つけて車を入れたのだが、六華苑のアスファルトに白線の区画がきっちりと引かれた駐車場と違って、砂利を敷いただけで区画もない。草ぼうぼうで1台の車も停まっていない…、いいのかなぁ。

 
 
 駐車場の横にあったレンガの塔→
   これ、何か解りますか?
   正解は 帰りに明らかになります。




 
← 駐車場から出て、赤レンガの塀伝いに歩きます。



 屋敷の中をのぞきながら塀の前を東へ歩き、左に曲がって正面に立った途端… 驚愕!
屋敷の正面。大門と母屋。【拡大】
この道の左に運河が流れている。


 車がそのまま入っていける正門の威風もさることながら、その右横に続いている母屋の豪壮なことはどうだ。間口15間、桧造りの総二階建、柱の太さは1尺5寸角もあろうかという威風堂々とした構えである。
 
圧倒的な壮大さに ホントの財産家とはこういうものかと、章くんはなぜか深く恥じ入ってしまった。そこらあたりの金持ちとは、わけが違う。
 この前の道は私有地である。道を隔ててその左側は諸戸家が掘った運河が入り込んできていて、伊勢湾から積荷を載せた船が家の前に着いた。
諸戸屋敷の前を流れる運河
【拡大】


 濃尾・伊勢平野、さらには江州(滋賀)から集められた米穀は赤レンガ倉庫に収められ、やがて相場の立った消費地へと船積みされていく。「五万石でも岡崎様はお城下まで船が着く」
赤レンガ倉庫
と、岡崎ッ子は家康生誕の地にある岡崎藩の格の高さを誇ってきたが、ここ諸戸家も玄関先まで船が着いた。





 人は、桁違いのものを目の当たりにすると、なぜか笑ってしまう。笑うしかないということか。
 30年ほど前、中日クラウンズにジャック・ニクラウスが特別招待選手で来たとき、章くんは4日間競技の全ての日にニクラウスについて回った。彼が3番アイアンで打ったボールの弾道の美しさに、章くん、思わず笑った。
 日本のプロのロングアイアンのように低い弾道のボールでなく、ビシュッと打たれたボールは途中からグーンと舞い上がり、まるでショートアイアンで打たれたかのような高さからストンと落ちて、和合の小さなグリーンにぴたりと止まった。それからしばらくの間、章くん、どんなにきれいなアイアンショットをしても、「こんなものじゃダメだ」と思い悩んで、ゴルフの調子が悪かった。


 話がそれてしまったが、章くんが笑うしかなかったという、初代諸戸清六の豪快さ…、その彼の生い立ちを、解説書やパンフレットから抜粋して簡単に紹介しよう。
 初代諸戸清六は江戸後期の弘化3(1846)年、桑名郡長島村の庄屋の家に生まれた(幼名を民治郎という)が、父清九郎が商売に失敗して身代を潰してしまう。一家は近在を転々としたが、やがて船馬町に落ち着くと船宿を営んだ。父親が早世したため、元治元(1864)年、清六は家督を継ぐこととなるが、そのとき受け継いだ財産といえば布団・衣類・道具と約二十石積の船一隻、そして一千両を越える莫大な借金であったとか。
 しかし、清六は母の米屋を手伝い米相場などを手がけて、約二年で借金を返済した。20才そこそこの清六が短期間で巨額の金儲けをしたのには秘密があった。清六は船頭や老農から教えられた情報をもとに、伊勢・美濃・尾張地方の翌年の天候を殆ど間違いなく予想して、米相場を張ったのである。
 巨額の資金を得た清六は、知遇を受けた大隈重信の勧めもあって鈴鹿山脈(三重県)や丹沢山地(神奈川県)の山林数千町歩買い集め、明治21年には日本一の大地主といわれるほどになった。晩年には東京の恵比寿、渋谷、駒場などに、宅地30万坪を取得していたという。
 『諸戸屋敷』と称されるこの邸宅と庭園は、室町時代にこの地で勢力を張った豪族矢部氏の邸宅(「江の奥殿」と呼ばれていた)跡であるとか。江戸時代の貞享3(1686)年、豪商 山田彦左衛門が隠居所として買い求め 造作築庭したものを、明治17(1886)年に清六が買取り、新たに庭園を造成して現在に至っている。


 予備知識はこれぐらいにして、お屋敷の中へ足を踏み入れよう。  
 
@ 母 屋

 母屋の受付で、入園券(500円)を求める。太い格子戸や欅の一枚板など、見るからに堅牢で豪壮な母屋は、明治22(1889)年、「諸戸店」開業時に店舗として使用された。清六は、玄関外の脇に三尺ほどの縁台を置き、せんべい布団に座っているのが常であったという。
 また解説には「自室には東海道線の時刻表を飾り、いつでも出かけられる支度がなされていた」とも書かれていて、彼の行動力がうかがわれる。



 
諸戸庭園パンフレットより【拡大】 ↓

@ 母屋
A 大門
B 玉突部屋
C 御殿玄関、車寄せ
D 推敲亭
E レンガ蔵
F 藤茶屋
G 菖蒲池、八つ橋
H 神祠
I 御殿、池
J 環濠(堀)

 
 

  
A 大門  明治27(1894)年ごろ、
          御殿の建築とともに建てられた →

  


← ゆうに車が出入りでき
 る大門をくぐって邸内に
 入ると、左右にモミジの
 並木が続く。



 
 
 その向こうに芝生が張られ庭石が配された小山が見える。「御殿」と呼ばれる客殿の玄関前の車廻しになっているのだ。

 
 
C御殿玄関
   
【拡大】
  







← B玉突部屋  御殿奥の洋館(非公開)とともに、来客を迎えるための建物である。
 


 
 明治23(1890)年、妻を亡くし商売も上手くいかずに気落ちしていた清六は、家相に詳しい佐野常民子爵の勧めを受けて、この御殿の着工を決意した。

           
玄関前の車廻し中央の築山に据えられている砲弾。 →
                日露戦争に米穀を供出したので、戦勝記念に
                下賜されたものとある


  


← 間口3間半、床は寄木張り。当時の外務大臣大隈重信の指図のもと、外務省の玄関を模している。 ↓














 部屋の前の階段まで行って、玄関の間をのぞき込むことはできるが、上がり込んではいけない。




 玄関前の生垣の間に設けられたくぐり戸を抜けて、庭園へと足を踏み入れた。

 
すぐにに小さな流れがあって
水が落ちている
【拡大】
竹垣の門 門をくぐると左手に
推敲亭が見える

 
D推敲亭は、江戸時代、この屋敷が山田氏のものだったころから、菖蒲池を見晴らす傾斜地にあった草庵である。3畳に小さな出床を設け、3面に障子を巡らせた開放的な造りで、狭さを感じさせない。名前の由来は、月を眺めながら詩歌を推敲したという伝承がある。傾斜地の石組みの上に、載せかけるように建てられている。 
 手前の石灯籠は、京都五条大橋と同じ欄干擬宝珠を戴く「橋杭灯籠 (擬宝珠灯籠)」。


 ここで章くん、にわか雨に降られた。このまま進むにはちょっと大粒すぎる。推敲亭の縁側に腰掛けさせてもらい、パンフレットを読んだり、前に広がる菖蒲池の景観を眺めたりしながらパチリパチリとデジカメのシャッターを押していた。
 と、管理室の女の子が、ビニール傘を持ってきてくれた。お礼を言いつつ、まだ勢いを弱めない雨足に、さらに10分ほど推敲亭に座らせてもらっていた。この屋敷の入館は午後4時まで…。4時を過ぎた今、園内に他の人の影はない。


   
推敲亭から眺めた G菖蒲池の眺望【拡大】 →
       
左手に「藤茶屋」の入り口が見える。


 推敲亭から池へ下がっていく地形に沢飛石が打たれ、山間の渓流のような趣をかもしている。江戸時代には花菖蒲ではなく杜若(かきつばた)が植えられていたらしい。
 今年の菖蒲はあらかた終わっていて、ちらりほらりと花が残っている程度…、庭園の公開も明日までで、今年のシーズンももう終わりだ。

  

← 本屋から庭に突き出た形の「伴松軒」。
  推敲亭の右上に位置している。



 4畳半に1間床を加えた茶室で、露地は巨石を配し高低差を付けた大胆な設計である。 ↓













 雨足も弱まったので、傘を差しながら、庭内をめぐる。

  

 


← 石が敷き詰められた歩経路【拡大】














 菖蒲池の置石の上から
  振り返った「推敲亭」【拡大】 →


  










← 庭内の石畳【拡大】


 切石と玉石による延段で、新潟の大地主である伊藤家の庭園(現北方文化資料館)を参考にしたといわれている。
  



              
Eレンガ倉庫の裏側 →



庭は苔むしている















 やがて行く手に、大きな藤棚に囲まれた小屋が見えてきた。
 江戸時代、桑名藩主もよく藤見物に訪れたという「
F藤茶屋」である。 
 

  
部屋から藤棚を見たところ
前方正面が菖蒲池、その対岸に推敲亭





  
藤棚の下から部屋を…。【拡大】
貸してもらった傘が写っている。
  
















 茶屋の縁側に腰掛けて、ちょっと休憩…。あたりは
静か、雨上がりの緑がみずみずしい。






← 藤茶屋の前から、推敲亭をパチリ




     菖蒲池を渡る 八つ橋【拡大】















 八つ橋を渡ると蘇鉄山があり、その向こうに鳥居が立っていて、小さな祠が見えた。諸戸家の氏神をお祭りしているのだろうと写真は遠慮したのだが、あとで解説書を見ると市指定文化財…、菅原神社、伏見稲荷、玉船稲荷、住吉神社、金比羅神社を祀っているとある。水運・海運の祭神は諸戸家が舟を利用して商いをしていたからだろう。




 ← 【拡大】このあたりの敷石は畳1畳ほどもあろうかという青石。
  この石は、志摩の桃取島(鳥羽市)から取り寄せたという。





 溝渠から水を引く
 水路に掛けられた
 青石の橋。 ↓
 でっかいよ【拡大】














   
屋敷の西側と北側に掘られて
  いる溝渠。その外側にレンガ塀
  がある。          →


 池庭へ水を引くこととと防備のため造られていた。通常は塀の外に溝を掘るものだが、清六の発想は、塀を乗り越えた賊が水路に落ちるというものであったらしい。
 揖斐川と結ばれているので、入ってきた魚を1ヶ月に1度さらえて、使用人と食したとか。
 
 


← I 御殿 【拡大】


 木造平屋入母屋造で西本願寺をモデルとしている。庭がよく見えるように、柱は少なく床が高い。

  
  
 





 
 32畳敷の座敷 →。 天井は格天井、壁面は群青地に金で霞をたなびかせた絢爛豪華ないでたちである。



 


       
御殿前の池庭【拡大】 →


 推敲亭と菖蒲池が山田氏所有の江戸時代からあったのに対して、この御殿とその前の池庭は、初代諸戸清六が明治23年から手がけ、数年をかけて完成した。
 ここはもと水田であったのを埋め立てたもので、海抜0以下の低さとか。そのため流れ込む揖斐川の干満の影響を受け、池の水位が上下して、刻々と変わり行く景観を味わう「汐入りの池」であった。干潮時には池の周りに白砂を敷いた浜辺が現れるなど、満干で景観が違う工夫が凝らされていた。現在は水門が閉じられているため水の変化はないが、再開の計画があるとか聞いて楽しみにしている。
 御殿の庭は、松と石を配して、菖蒲池の江戸期の庭園とは全く趣の異なった造りとなっている。鳥羽や志摩から運んできた見ごたえのある大石や青石などが置かれて幽玄な趣があり、中央の雪見灯籠辺りの雰囲気は、酒田の本間家別邸「鶴舞薗」を参考にしたとか。


【拡大】手前に白砂を敷いた岸辺が見える。
 水位が上がると、この岸辺は水没して池が
 広がる。



池にかぶさる松の木の
太さも、半端じゃない。



 日本一の大地主となった明治21年、清六は日本中の大地主10数名を選んで、造園だけでなく、思想・処世・人生観などについて教えを請うための旅に出ている。
 日本一になってこその謙虚さであろうか。その謙虚さが、清六を日本一にしたのかも知れない。


 庭園をあとにして、本屋の受付に傘を返しに行った。受付の後ろに焼き物の展示棚があり、その上の壁に初代諸戸清六の遺訓が貼ってあった。
 『 … 1. 飯は熱いものは食する二時間がかかるから、冷や飯をひと口ほどの握り飯にして、仕事の合間に手早く食すべし』…、時間を惜しんで働いた清六の基本姿勢であろう。
 『 … 1. 仕事のある間は、飯など食うべからず』…、その通りだ! 章くん、今日は朝からまだ何も食べていない。やらなきゃならないことがある間は、飯など食わない…章くんは、日本一の大地主になる可能性があるんじゃないか。
 『 … 1. 人に接するには、へりくだり、つつましやかに振る舞うこと。驕りや誇りは、一銭の金も生み出さない。』…という一項に来て、章くん、日本一の金持ちになることをあきらめた。
 20代のころ、得意先の学校の先生を捕まえては「勉強が足らんわ」と言い放ち、30代では教育図書の値引きを違法だと言う全国図書教材教会と新聞紙上で大喧嘩…、相手を黙らせてしまった。40歳のとき、取引先の信用金庫の専務理事に「今月の返済が足らんのは貸手責任ろや。いちいち電話して来んと、自動的に貸し越しといたらええんや」と言って、「飯田さんは絶対に謝らんなぁ」とあきれさせ、50歳代では初対面の自民党県連の幹事長に「この組織は腐っとる」と言いたい放題…、横にいた政調会長に「あんたはホントに恐いモンなしやな。わしゃもう知らんわ」と匙を投げられてしまっても、全然反省がないのだから、清六の道は踏襲できない。


 駐車場へ戻ると、往きに「何だ、こりゃあ」と思った、レンガの塔が待っていた。しかし、今や『諸戸屋敷』の全てを知り尽くした章くんに死角はない、
 初代諸戸清六が、私費で上水道を造って桑名の町の人々に市民に無料で給水していたという話は、その@に書いたが、この塔はその貯水塔であったらしい。諸戸家のものでなく、町の人々に給水する施設であったとか。




 セレブへの… いや 成金への道をあきらめた章くんの、桑名探訪はつづく。


 午後5時、
九華公園に到着。駐車場の横に「柿安」のレストランがあるのだが、『飯はあとにしろ』という清六翁の声がどこかから聞こえてきて、明るいうちに公園の見物を済ませることにした。


 九華公園は、もと桑名城の城跡である。関が原の戦いの翌慶長6(1601)年、本多忠勝が10万石で入封して城下の町割(都市計画)をするとともに、城郭の拡張整備を行なった。
 元和2(1616)年、忠勝の孫である忠刻は徳川家康の孫娘である千姫と結婚し、千姫は桑名城内に住んでいた。
しかし翌元和3年に本多家は姫路城に移封となり、松平(久松)定勝、寛永12(1635)年に松平(久松)定綱、宝永7(1710)年に松平(奥平)忠雅、さらに文政6(1823)年に松平(久松)定永が城主となり、幕末を迎えている。慶応4年=明治元年(1868)の戊辰の役・蛤御門の変で新政府軍を相手に奮戦するのは、この松平藩である。




 桑名城(扇城)は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができ、堀は海水で満たされていた。
 天守閣は四重六層の勇壮なものであったが、元禄14(1701)年の大火で消失し、以後は再建していない。
 明治維新、桑名藩は幕府方についたため、官軍に城の一部を焼かれ、明治4(1871)年に城は取り壊された。
  
             
「三重県指定史跡 桑名城跡」の石碑 →


 園内に松平定網公(鎮国公)と松平定信公(楽翁公・守国公)を
まつる「鎮国守国神社」がある。松平定信は寛政の改革を成し遂げ
た名君だが、なぜ定信を祭っているのか…。
 後日、城主の系図を紐解いて始めてわかった。寛永12(1635)年に
入封した松平(久松)定綱は定信の先祖であり、文政6(1823)年、奥
州白川藩から移封した松平(久松)定永は定信の嫡男である。
 定永は、定綱と定信を国と家の守護として「鎮国守国神社」にま
つったのだが、定永の桑名入封後も、定信(1759〜1829)は高齢であったので桑名に出向いたことはなかった。


← 「鎮国守国神社」の横にある稲荷社


 清六の弟子になりそこなった章くん、お稲荷さんに願掛けして一攫千金を目論んだのだが、「こらキツネ、賽銭あげるんやから、十億倍にして返せよ」と相変わらずの傲慢さだから、お狐様も迷惑なことだったろう。
 願掛けしている章くんの横を、浴衣姿の若い相撲取りがパンクしそうな自転車をこぎながら通り過ぎていった。名古屋場所が近いからか…。

 
 
 二の丸跡まで渡ることもあるまいと思い、本丸跡を通って辰巳
櫓跡へ登ってみた。


            
本丸跡の菖蒲園。対岸は二の丸跡 →

  







← 吉の丸から本丸へ戻る橋の
 途中に設けられた東屋。

 
 辰巳櫓から撮ったもの。辰
 巳櫓には、大砲が据えられて
 いる。


  
 







 辰巳櫓から本丸跡を突っ切ると、「柿安」の裏手に出る。
さあ、ご飯だ、ご飯だ…! 肉鍋を頼んで待つことしばし…、この柿安新館は肉類を中心としたフードセンターを開店している。章くん、館内の青果売り場でスイカの8分の1カットを買ってきて、かぶりついた。それを見て、ウエイトレスの子がスプーンを貸してくれた。こうして章くん、本日初めての食事にありついたのである。


 諸戸清六の成功の秘訣は何だったのだろうか。清六の事跡をたどってみて思ったことは、月並みだけれど、「ひとつのことに一生懸命に取り組んだ」ということだろう。彼が残した『遺訓』を読んでも、愚鈍なばかりに月並みである。その月並みなことを愚鈍に貫けるかどうか、それこそが諸戸清六の最大の偉業なのだ。
 もうひとつ、彼は人間が好きであった。夜行列車で出かけるとき、1等の客に話し相手が居ないと2等車両へ出かけ、そこでも面白い話が聞けなかったら3等の乗客の中へ入っていって、いろいろな話に興じたという。彼の情報の源でもあったのだろうが、仕事だとか思っていてはとても続くものではないし、また生の話を聞けるものではない。彼が見ず知らずの人の心の中へ入っていって、打てば響く付き合いができたからこその付き合いであった。
 人間に対する興味… それこそが、尾張・美濃・伊勢・江州の毎年の気候状況を言い当てて外すことがなかったという清六の、、世の中を分析する情報の源泉であったのだろう。



 
  物見遊山トッブへ